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「未熟」の価値。 


 

 

■こんにちは。トゥモローこと、橋口友比古です。

そういえば、バリにいる間に、

iPhoneがご臨終となりまして、

LINEにログインができなくなりました(^^;;

端末ロックって、

こういうときに不利に働きますね。

で、LINEのIDを新しく作るか迷ったのですが、

思い切って、LINE、やめることにしました

えっ!?って感じですかね。笑

 

 

■というのも、実は、

3週間バリ島にいる間に思ったのが、

「オレ、iPhone見過ぎじゃね?」

だったからです。

iPhoneが壊れてみると、最初は不安です。

何度もiPhoneを取り出しては、

「あっ、そか、壊れてるのか」

と思います。

そしてそれに慣れてくると、

「どうせiPhoneないし」

と開き直ってきて、

最終的に、精神的に身軽になるのを感じるんですよね。

ボクらは知らず知らずの間に、

他人との「つながり依存症」になっているのだなー、

と思ったわけです。

ということで、今後は

・メールか、Facebookのみ

という方向で行くことにしました。

LINEは使ってませんので、

なにか連絡のある関係者各位、

Facebookかメールでご連絡くださいませ。( ´ ▽ ` )ノ

 

 

 

参加を迷ってしまう、レベルの高いセミナー

 

 

 

 

■さて。

滅多に募集をしないのですが、

ボクは実は『会員制クラス』の運営をしています。

(最近メールを読み始めた人は知らないと思いますが。(^^;;)

このクラスは、

「自分のチカラで稼げる『知性』のある人になる」

というのがテーマです。

またそれ以外だと、

半年に一回とか二回程度、

セミナーを開催します。

それ以外は、あまり「俗世間」との関わりがありません。笑

 

 

■で、どうやら最近、

ボクのメルマガ読者から
(直接言われて初めて分かったのですが)

トゥモローさんのセミナーは、参加者のレベルが高そう
自分なんかが参加していいのだろうか」

と思われているらしい、

ということが分かりました。笑

 

 

■ボクとしては、

「いやいや、そんなこと言わずに、
一度参加してごらんよ〜。
けっこう楽しいと思うよ」

という気持ちなのですが、笑(^^;;

まあ、それは置いておいて。

これを言われて、

ちょっと違う観点で気づきがありました。

これってビジネス、

特に人の成長・教育に関わる人にとって、

とっても重要な視点だよな〜。

と思ったのでここでお話ししたいと思います。

 

 

■実は先日から、

木坂健宣さんの主催している、

少人数クラスに参加し始めたのですが、

ボクから見て、

そこのクラスは異常にレベルが高いです。

ボクが普段会話している人の中では、

よくボクがもらう評価は、

「論理的」で「分かりやすい話をする人」

というものです。

ですが、そのクラスでは違いました。

 

 

 

 

「師」のセミナーで感じたボクの『未熟』

 

 

 

 

ボクの論理力は、そのクラスに入ると、

せいぜい「中の下」程度。

参加者の本の読み込み(読解)の深さも、

議論の進め方、ディベートでの論旨の明確さも、

正直、話についていくのがやっとでした。(^^;;

(とても勉強になった、という感想を得られる程度には、ついて行けましたが)

 

 

■で、そこで思う訳です。

「オレって本当に未熟だな〜」
「分かってないのにあんな発言しちゃって、恥ずかしいな〜」

と。

そうです。ボクは自分自身のことを、

『未熟』と評価しています。

そしてハタと気づくわけです。

ボクが師とあおぐ木坂さんは、

自分のことを
「ボクらのような凡人が・・・」

というようなお話をよくされています。

そしてボクのメンターである福井さんも、

「どこまで行ってもチャレンジャー。
常に、一兵卒だからさ」

とおっしゃいます。

つまり、ボクは未熟であり、

凡人であり一兵卒である人を「師」とあおいでいる。

 

 

■でも、福井さん主催の飲み会には1000人(!)が集まり、

木坂さんの10万円以上するセミナーに人が殺到し、

ボク程度でも、ささやかながら、

トゥモさんから教わりたいと思ったので申し込みしました」

と言ってもらえ、

好きなときに旅ができる程度には、

自由を得られている。

 

 

■ボクがここで言いたいのは、

じゃあ「未熟」ってダメなのか?

ってことです。

 

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考えようによっては、

むしろ未熟って、『ノビシロ』なわけで。

未熟って、本当はいいことなんじゃないのか?

という問いですね。

 

 

 

 「未熟だから。。」は、もう理由にならない!

 

 

 

■そう考えると、勉強ばかりして、

なかなか一歩が踏み出せない人たち

いわゆる
「ノウハウコレクター」
「コアコア病」
「自分探し中」
「セミナー中毒者」

のみなさんがよく言う、

「自分にはまだムリ」

という言葉には、なんの意味もないということになります。

だって、
「未熟だから一歩を踏み出せない」

という論拠には、

なんの信憑性もないことになりますから。

 

 

■これって、マジメに勉強している人ほど

陥りがちなパラドクス(矛盾)です。

勉強とは知識を得る為にやることです。

しかし実は、勉強には

・分かったことと比例して、分からないことも増えて行く

という、
なんとも「悩ましい性質」があるんですね。

だから学べば学ぶ程、

一歩が踏み出せなくなってしまうわけです。

 

 

■つまり、

知らないことがあるから学ぶ

学んで分かるけど、分からない部分も増える

それを埋めようとまた学ぶ

また分からないところが広がる。

またそれを・・・

というループをグルグルと回ってしまう。

これがマジメな人が陥っている落とし穴の構造です。

 

 

 

ボクたち日本人が陥りやすい、パラドクス(矛盾)

 

 

 

■内田樹さんが

「日本辺境論」の中で

『謙虚さのせいで悟りに到達できない』

というパラドクス(矛盾)を、

実にうまく書きあらわしています。

(ここから抜粋)
=============

日本人はどんな技術でも「道」にしてしまうと言われます。
柔道、剣道、華道、茶道、香道・・・なんにでも「道」が付きます。
(中略)
「道」という概念は実は「成就」という概念とうまく整合しないのです。

私たちはパフォーマンスを上げようとするとき、
遠い彼方にわれわれの度量衡では推し量ることのできない卓越した境位がある、
それをめざすという構えをとります。

自分の「遅れ」を痛感するときに、私たちはすぐれた仕事をなし、
自分が何かを達成したと思い上がるとたちまち不調になる。

この特性を勘定に入れて、
さまざまな人間的資質の開発プログラムを本邦では「道」として体系化している。

「道」はまことにすぐれたプログラミングではあるのです。
けれども、それは(誰も見たことのない)「目的地」を絶対化するあまり、
「日暮れて道遠し」という述懐に託されるような
おのれの未熟、未完成を正当化してもいる。
(中略)

仮に、私がある宗派なり流派なりの宗祖家元であると名乗ってしまうと、
私はあらゆる試みに対して、その場で、
わが身を以ておのれの卓越性を証明しなければならない。
何か質問されて「よく分かりません」と返事することが許されない。
「他流試合」を申し込まれたら逃げ出すわけにゆかない。

けれども道統を継ぐ「弟子」のポジションに立つ限り、
この責任を免ぜられます。
むずかしい質問を受けても、「分かりません」と答えることが許される。
「師なら答えられたでしょうが」と言い添えさえすればいい。
「奇跡を起こしてみせろ」と詰め寄られても、
胸を張って「できません」と答えることができる。
「師はできたのですが」と遠い目をすればよい。
(中略)

これが「道」という教育プログラムのきわだって優れた点です。
「道」に寄り添っている限り、
「ここがロドスだ。ここで跳べ」という切迫に遮られることなく、
腰を据えて道統を伝えることができる。

けれども同時に、その利点はそのまま修行の妨げともなります。
私が現に学んでいること、私が現に信じていることの正当性を、
私自身は、今この場で挙証する責任を免ぜられているからです。

===========
(抜粋、ここまで)

 

 

■長々と抜粋しましたが、

ボクが問題意識として持っているのは、

要は、
上記のループの『出口はどこなんだ?』という点

です。

「道」の概念からも分かるように、

みんな出口を目指して「学ぶ」けど、

それってより深い迷路にハマってるだけなんじゃないの?

っていうことです。

実は、このループの出口は、

×もっと学ぶことではありません。

そうではなく、

◎「未熟なまま、一歩を踏み出してみる」

という選択肢にあります。

 

 

■自分にはまだ出来ないかもしれないけど。

もっと上手な人は他にもいるけれど。

未熟な自分では、恥をかくかもしれない。

怖い。

でも。

「それでも、一歩を踏み出してみる」。

これが大切な姿勢だと思うわけです。

 

 

 

すべての人に「道」は開かれている

 

 

 

■実は、
(やってみれば分かることなのですが)

上記の怖さは、実は現実の世界では問題になりません。

なぜなら、

自分のレベルに関わらず、

「あなたから教わりたい」

という人は必ず現れるからです。

 

 

■例えばボクは、木坂さんのことを、

こうやってメールで紹介します。

普通に考えたら、

「それって、トゥモローさんのおまんま食い上げじゃないの?」
「自分よりすごい人を紹介したら、みんなそっちに行っちゃうじゃん

と思うと思いますが、実はそうはなりません。

最初に書いた通り、

「これは自分にはレベルが高過ぎる」

と思うものに、人は価値を感じないからです。

 

 

■ボクの生徒さんにも、

「トゥモローさんに教わったことを、
自分の生徒さんに教えています」

という人がいます。

その生徒さんにボクのことを紹介することもあるそうですが、

でも、意外にも

その生徒さんはボクのところには来ません。

彼らからしたらボクは、
「なにやら小難しい話をする人

でしかないからです。(^^;;

(ボクの生徒さんから見た木坂さんも同様)

 

 

■これは全ての人に広く道が開かれる、

「一筋の光明」となり得る発見です。

「未熟だからこそ」価値がある、

ということだからです。

たしかに、

(例えばこの宇宙の成り立ちを最新の理論で解明しようというような)

超天才の研究しているテーマなんて、

ボクらにとっては、

なにを言っているのかさっぱりだし、

興味すらありませんもんね。(^^;;

 

 

■この視点が分かると、

『未熟なまま、一歩を踏み出す』

ということが可能になるわけです。

これを鈴木大拙は、

親鸞を論じた文章の中で、

「悟り」と呼んでいます。

意外や意外。

悟りとは、完璧な境地に達することではなく、

「未熟さ」を許容することなんですね。

 

 

 

未熟なまま一歩を踏み出すために、不可欠な感覚◎

 

 

 

■さて。

「怖いまま飛び込む」ためには、

「未熟だからこそ価値がある」

という視点が必要だと書きました。

その視点を持って飛び込める人は、

ぜひ、そうしてみてください。( ´ ▽ ` )ノ

お役に立てれば光栄です。

ただ、中にはそれは分かっていても、

まだ躊躇してしまう人がいるでしょう。

その人は、上記の視点とは別に、

「とある感覚」が欠如している人です。

 

 

■その感覚を持てない限り、

いくら頭で
「未熟だからこそ価値がある」

ということを理解しても、一歩を踏み出すことができません

その感覚がなにかと言うと・・・。

今回のブログは長くなったので、

また次回の投稿で書きますね。( ´ ▽ ` )ノ

未熟なまま飛び込める人たちが持っている

とある感覚とは。

次回までに、

ちょっと各自考えてみてください。

今日はこのへんで。

それでは。

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